「自然の中で暮らしたい!」
「自給自足の生活をしたい!」
「とにかく都市部での生活に疲れた…」
「実家に帰らせていただきます…」
などなど、田舎へと移住する理由は千差万別。
では、僕はどうだったのか?
移住して7年が経ちましたが、改めてふり返ってみます。
とにかく移動した20代
20代を過ごしたのが、初めての就職先となった国際NGOとその後に転職した旅行会社でした。特に旅行会社に勤務していた時は、1年の半分以上が海外や船の上。かつひとつの国に最短で1日、最長で2週間といった感じで、常に移動を続ける日々でした。
給料はお世辞にもいいと言えるものではありませんでしたが、「世界中を飛び回る」といった生活に満足していました。
その中で僕の人生に影響を与えてくれたのが、現地に暮らす人々との出会い。その地に適した家に住み、生活に様々な工夫を凝らし、伝統を大切に生きる。そんな人々がなんだかとてもかっこよく見えたんですよね。そうして、
「いつか、大地に根を張る暮らしをしてみたい」
と、考えるようになっていきました。
サンフランシスコで運命の出会い
実際には「大地に根を張る暮らしがしたい」といっても、具体的なイメージがないまま月日は過ぎていきました。そんな時に仕事で訪れた、アメリカはサンフランシスコ。街の中心から車で約2時間の距離にある、田舎の小さな農園を訪れたときのことです。
アメリカの農地といえば、地平線まで続くような、とてつもなく広大なものを想像していたのですが、そこは25メートルプールをふたつ並べたほどの、こじんまりとしたものでした。
いろいろな野菜やハーブが栽培されている畑。そのかたわらに佇む、小さな家。
目前にあったのは、まさにそこに暮らす人が築いた小さな世界。広大とはいえないまでも、充分に余裕のある敷地での営み。
「あ〜、これだよね、これっ。こんな感じの自分ワールドを作りたいなぁ・・・」
なんて思ったのを、今でもよく覚えています。
※ちなみにこの時は、農業をやりたいという欲求はとくに無く、単純に自分ワールドというものに憧れを抱いただけです。
こうして、(やや?)具体的なイメージができたものの、東京で同じような暮らしはまず無理(ムチャクチャ土地が高い…)。
だからと言って、今すぐに退職して土地の安い所へ…っていうのも、現実味がない。というか、そこまで無理矢理に現状を変えたいという思いもなかったのが正直なところでした。
勤務先が規模を縮小する!?
更に月日は経ち、僕は旅行会社から出版社へと転職していました。
海外経験を活かせる、海外旅行のガイドブックの編集をメインに、再び会社員として過ごし始めます。そして、まもなくして発生したのが、東日本大震災でした。
この災害は、多くの人にとって、「人生」を考える大きなきっかけになったんじゃないでしょうか? 僕自身、多大なる影響を受けたひとりで、平穏な日々がいつなんどき、どんな形で崩れるか分からないと強く実感しました。それは震災発生から1週間後にボランティアとして現地に1週間滞在し、現実を目の当たりにしたことも大きかったと思います。
そうこうして3年ほど経ったある日、会社が規模を縮小することに。
加えて、時を同じくして、妻の妊娠が発覚。
仕事、家族。
人生における大きなものが変わろうとしていました。
神様からのお告げかどうかは分かりませんが、まさしくターニングポイントが訪れたのです。
遂に移住を決断
そして「えいやっ!」っと、なかば勢いも当然ありましたが、移住を決断。
ですが、そもそも退職して、食べていける保証はどこにもありません。企画ベースで出版社と仕事をできる関係ではありましたが、残念ながら世の中は出版不況といわれる状況。「印税生活」といえば聞こえはいいのですが、それは売れなければただ働きにもなる諸刃の剣を意味します。
(こう書くと編集者=食えないという図式が生まれそうなので、誤解なきように。ちゃんと食べられている人も多く存在しますので)
それに今までの勤続年数から、半年以上失業保険を使えるということも分かり、
「まぁ半年もあればなんとかなるでしょ?」
「移住が失敗しても東京に帰るか、また別の所を探せばいいんだし」
みたいな楽観的な気分に加え、なにはともあれ「ピンチはチャンス」という思いもあり、2013年6月、かつて夢見た移住が実現しました。
着地したのは、飛騨高山で知られる岐阜県高山市。なぜここを選んだのか? についてはまた次の記事で。
to be continued