多賀秀行のプロフィール

ざっくり紹介するショートバージョンと、1万字に迫るロングバージョンを書いてみました。お時間許せばロングバージョンもどうぞ。

 

【ショートバージョン】

1981年生まれ、東京都出身。

高校卒業後、「地球一周の船旅」に参加。以降、国際NGO職員の後、旅行会社で企画、手配などに携わる。その中で延べ70の国と地域を訪問。その後、出版社へと転職し「5日間で行けちゃう!絶景・秘境への旅」をはじめとした、累計30万部発行の旅行ガイドシリーズの編集者に。2013年に退職し、岐阜県高山市へ移住。現在は、1日1組限定の宿「ANCHOR SITE」を経営。家族構成は、妻、子ども3人、犬1匹。

著書に「一生に一度は行きたい 世界の旅先ベスト25(光文社新書)、「Z’s Stage(A-Works)がある。

【ロングバージョン】

北海道芦別市出身の父。

沖縄県宮古島出身の母。

1981年、僕はふたりの間に東京で誕生した。

2歳前後だろう。両手にメロンパン。

出身は東京都東村山市。「ひがっしむぅ〜ら〜やぁまぁ〜」と、志村けんがテレビ番組「8時だョ!全員集合」で披露し、社会現象にもなった「東村山音頭」によって全国にその名が知れ渡った街だ。

初対面の人に「東京の東村山市出身なんですよ」というと、決まって「あ〜、志村けんの!」なんて言われてきたが「最近の若者」には東村山市だけでは通じない。悲しいかな中年に片足を突っ込みはじめたようで、いよいよジェネレーションギャップを感じ始めている。そんな時は「東京の23区じゃない西の方にある市ですよ」なんて説明している。

今の東村山市は見渡す限りの家、家、家。ベッドタウンの名に相応しい風景が広がっているが、今から30年ほど前、僕が小学生の頃は、茶畑(狭山茶の産地)や畑、雑木林も多くあった。雑木林にはカブトムシやクワガタ、水場にはザリガニやヘビなどが生息するような自然があったのだ。都心まで電車で1時間もかからないのに、なかなか自然もある。そんな良くいえばいいとこ取り、悪くいえば中途半端な位置にある街だった。なにはともあれ僕は、高校卒業までこの街で育った。

 

体を壊すほど熱中した少年野球

野球に励んだ小学校時代。

小学生時代に熱中したのは野球だった。小学2年生から地域の少年野球チームに所属し、2部(1〜4年生チーム)、1部(5、6年チーム)のいずれでも主将を務め、セカンドを除くポジションはピッチャーを中心に一通り経験した。

最近では、野球をする子どもをケガから守る為に球数制限が叫ばれている。しかし当時は、そんな知識を誰もが持たず、ひたすら投げ続けていた。しかも「アップ」なんていう知識もない。1球目から全力投球することに何の疑問も持っていなかった。案の上、高学年になるとお約束の肘痛を発症。小学生ながら投げられない体になってしまった。

 

顧問に嫌われた?中学時代

野球は前述の通り投げられないので、中学に入るとバスケ部に入部。近所の兄ちゃんや漫画「スラムダンク」の影響だった。まあ流行にのったわけだ。ただバスケは中学3年間だけと決めていた。やっぱり野球を続けたい思いがあったので、3年間は肘を休めようと。ただ帰宅部だと体がなまるので、他の運動をしておこう。そうだバスケだ。そんな流れだった。

入部時は3年生に近所の兄ちゃんがいたこともあり、上級生からいびられることもなく、平和なバスケ部生活だった。今思えばこの頃に身に付けた「年上と仲良くなる」という処世術が、現在でも役に立っていると思う。

何故だか僕らのひとつ上の世代の部員はゼロ。必然的に2年生になった時には、僕らの代がチームの中心だった。キャプテンには後の中学校のボスとなるS君。そしてサブキャプテンには僕が就任。そして「不良中学生なんてこれっぽっちも恐れてないぜ!」って感じの体育教師が新たな顧問に。

そうして2年生がスタートした訳だったが、1ヶ月もたたないうちにキャプテン、サブキャプテンの役はクビに。今も覚えているが、まるで野良猫を追い出すように首根っこをつかまれ体育館の外に放りだされた。原因は覚えていないがきっとふざけていたのだろう。このことが象徴するように、顧問にまったく気に入られなかった僕らふたりだった。

その結果、しばらくしてS君は退部し、不良街道まっしぐら。僕はというとややふて腐れはしたものの、バスケ自体は楽しいし、なにより残っている友人達のメンツもよかったので、引き続きバスケ部に所属。

 

バスケ部の友人らとは、ペットボトルのお茶におしっこを入れて「誰か飲むんじゃね!笑笑」、「今日あいつんちでタバコ吸おうぜ」みたいな、まんま中学生を絵に描いたような遊びをして過ごした。

ちなみに当時を振り返ると、ジャンプ、マガジン、サンデーと、チャンピオンを除く漫画誌を毎週読んでいた。ドラクエやFFなど一通りゲームもやったし、スケボーやスノーボードなどもやった。いわゆる流行に触れたりはするけど、特別にハマるものはない。そんな中学生活だった。

肝心なバスケ部の写真がない…。こちらは中学3年生、修学旅行で訪れた法隆寺にて。

 

憧れの高校球児に

「いいとこ、中の下じゃないか。安全にいくなら下の上かな…」。中学の担任との進路相談で伝えられたのは、そんな言葉だった。そうなるとN高校しか選択肢はない。が、聞いた話では野球部がない。ならばと、一念発起し受験勉強をしたら「中の中」にあたる野球部のあるK高校に合格できた。偶然にも志村けんが第1期生として卒業した高校だった。晴れて憧れの高校球児になった。

入学からほどなくして、我が耳を疑った。通学路の途中にN高校があるのだが、グランドから「カッキーン!」と乾いた金属音が聞こえてくるのだ。「えっ!?」と思い目を凝らすとグランドには球児の姿。「はっ!?野球部がないんじゃなかったっけ??? って、勉強しなくてよかったんじゃ…」

N高校に野球部がないというのは完全なるガセネタだったのだ。K高校に入学できたから結果オーライといえるものの、もし落ちていたら。また違った人生になっていただろう。しかし、ピュアな中学生になぜガセネタを流したのか…未だに残る謎だ。

 

茶髪、グランドに立つ

「よしっ、やるぞ!」。そんな初々しい気持ちで初めて足を踏み入れた野球部のグランド。そこで今度は我が目を疑った。ゴム紐で縛るほどの長髪、ヒゲを生やし染め上げた茶髪、そしてユニフォームは腰パンばき…。

TVの中で見ていた高校球児とはかけ離れた姿の先輩達が、白球を追っていた。

「マジかよ…なんて学校にきちまったんだ」なんて思っても後の祭り。とはいえセンター分けの長髪だった僕が言えることではないのだが…。

 

K高校野球部には謎の伝統があった。

「入部したら1度坊主にすればよい」

 

そもそも坊主に抵抗はなかったのだが、入部してしばらくたってから坊主にした。何故遅くなったのかは覚えていない。そして丸刈りでグランドに行くと、先輩方から「おーいいね、やるじゃんか」と何故か見直された言葉をもらった。後日聞いたところでは、先輩方の間で「あいつ坊主にしないで生意気だな、一回しめてやろうか」なんて話がでていたそうだ。ふぅーあぶないあぶない。

 

高校1年生の夏。予選の開会式にて。

 

こんな先輩方の元で過ごすことで、僕も3年生の時には立派に髪を染め、腰パンで白球を追っていた。対外試合に行く時などは、球場に入る前に人目につかない駐車場で一服。そして更衣室に入り、髪を黒く染めるスプレーを頭に吹いてから、グランドで「バッチコーイ」なんて言っていた。

見た目には、ドラマや映画化もされた人気野球漫画「ルーキーズ」に近い部分があるが、最大の違いは圧倒的に野球の実力がないということ。色々と残念という他ない。

 

ちなみに、

主にファーストで出場した2年生時は4回戦敗退。

主にショートで出場した3年生時は初戦敗退。

だった。

 

多くの球児同様に涙を流した、高校最後の夏。

高校卒業後の進路は?

初戦敗退であっさりと夏が終わると、進路を考える時期にきていた。多くの人からすれば遅すぎという話かもしれないが、特にやりたいこともなく、なりたいものもない僕にとっては、答えのない話題だった。

けれども避けては通れない。そこで考えられる選択肢は4つということが分かった。

・大学進学

そもそも僕の学力で行ける大学なんて限られていたし、勉強はお腹いっぱいというのが正直な気持ちだった。「大学に入れば遊び放題」なんて声も聞いたが、お金を払って大学生という身分を買って遊ぶんだったら、お金払わないで遊んだらいいじゃんと普通に思ったことを覚えている。ということで進学は却下。

・短大進学

短大とは2年行けばいい学校。という認識しかなかった。今でも短大がなんなのかよく分かっていない。普通の大学と同じ理由で却下。

・専門学校

専門的に学ぶために行くのが専門学校という認識はあった。しかし、専門的に学びたいことがないので却下。

・就職

えー、まだ働きたくないよ…。ということで却下。

 

頭を整理して考えた結果、

「えっと、4つの選択肢どれにもあてはまらない…」

なんて思っていた。

 

野球部生活が終わり、しばらく遊び続けていた。

 

それからしばらくして、ふとひらめいた。

「そうだ旅に出よう!」と。

 

多賀、旅に出るってよ!

ここまで読んでいただいた人にはもう伝わっていると思うが、僕は勉強が得意ではなかった。しかし英語だけは好きといえる唯一の教科だったので、テストでもなかなか良い点を取っていた。

旅に出ようと思いついたのは、英語が好き→旅に出よう→旅といえばアメリカ。こんな思考回路だった。それにどこかで“周りと違ったことがしたい”という欲求もあった。しかし「旅に出る」と決意したもののダラダラと日々が過ぎていった…。

そんなある日、友人M君の父親によって大きく人生が変わった。

M君の家はとても珍しく、1階の一部分が派出所になっていた。父親の職業が警察官だったのだ。ALSOK顔負けのホームセキュリティで、泥棒なんてまず入らない家だった。そんな家に結構な頻度で入り浸り、いつもその友人とタバコを吸っていた。その様子は、もちろん父親に知られていたが、怒られることもなく、小言を言われるでもなかった。しかしどこかで僕らの進路が気がかりだったのだろう。

ふいに父親が友人の部屋に入ってきて、1枚のビラを僕たちに渡した。「こんなんもあるぞ」と。

そこには、「地球一周の船旅98万円」という文字。

ビビッときた。とはこういうことをいうのだろう。今まで想像すらしたこともない言葉なのに、何をするかは一瞬で理解できる。とにかく地球を一周するということだ。

「これしかない! だってアメリカよりも地球の方がでっかいし!」

誰に入れ知恵されたか、男はでっかいことをやればいい。そんな単純明快な理由で、卒業後の進路が決まったのだった。

 

なぜM君の父親がそんなビラを持っていたのか。後に聞いた話では、地球一周の船旅のスタッフをしていた人が近所に住んでいて、何かの盗難届けを出しに派出所にきた。そこで「僕、こんなことやってるんですよ」と父親にビラを渡したのだという。これがキッカケとなり、僕の人生は大きく変わることになる。

 

進路が決まったとはいっても、船に乗り3ヶ月をかけて16カ国を巡るものなので、進路と呼べるほどものでもなかった。だけど、そんなことはどうでもいい。その後のことなんて帰国してから考えればいい。そんなことを思うも、もちろん先立つものはない。目標が出来たことでバイトを始め、最終的に足りない分は親に頭を下げてなんとか旅費を工面した。

 

高校を卒業して迎えた2000年5月。まっさらなパスポートを片手に晴海港から世界へと旅立った。

 

高校の卒業式にて。

 

地球一周の船旅から帰国そして、就職

地球一周の船旅中に訪れたエルサレムにて。

僕が参加したのは、NGOピースボートがコーディネートする「第28回ピースボート地球一周の船旅」だった。船旅も終盤になると、帰国後に何をするか?という話題が僕と同年代の間で話されるようになっていた。鍼灸師になる、美容師になる、留学する…ここでもみんな色々と考えていた。そんな時だった。あるピースボートスタッフから「職員になってみないか?」という話があった。

迷うことはなかった。なぜなら職員になれば、スタッフとして年に1度は地球一周できるからだ。

「ただ単に海外行きたいって? そんなボランティア精神のないような人はピースボートに関わっちゃいけないんじゃない?」なんて聞こえてきそうだが、そういった崇高な精神を僕は持ち合わせていなかった。

事実ピースボートには多くの職員がいたが、関わり始めた理由は人それぞれだった。

「ボランティア活動をするための場がほしい」

「少しでも世界平和に貢献したい」

「世界を舞台に活躍したい」

「面白い人達と船を出したい」などなど。

僕はとにかく船旅が楽しかったので、今度はそれを作る側になって、多くの人とまた旅をしたいと考えたのだ。動機の大部分をこの理由が占めていたが、僕が働くことによって少しでも世界の困っている人に貢献できればという気持ちもどこかあった。

 

このように期せずして就職活動をせずに職を得たのが19歳の夏だった。そしてこのことで、最終学歴が高卒に決定した。

 

先輩をがっかりさせた1本の電話

社会人1年目。世界を旅したとはいえ、世の中の常識など何も身についていなかった。そんな僕の初仕事は電話営業だった。「地球一周の船旅」の資料を請求した人に電話で不明な点がないか確認するものだ。

 

大きく深呼吸し、該当する人の電話番号を押す。今までの人生で味わったことのない緊張感に、手に汗を感じる。耳にあてた受話器から無機質なコール音がしばらく続く。

「ガチャ。はい、○×△ですけど・・・」

相手は年輩の方だ。緊張しながらも、自分なりに一生懸命、地球一周の船旅の説明した。「ありがとうござっしたっ!」そう言って、静かに受話器を置いた。

 

「おいおい、やるじゃねか!」

 

こんな感じの言葉を、周りの先輩方からかけられるもだと思っていた。照れた笑顔の準備もしていた。しかし聞こえてきたのは180度異なる声だった。

 

「おい、多賀! 最後に『ス』つけるの敬語じゃねーから!笑」

 

「そうっス!」「こんちわっス!」など、なんでも語尾に「ス」を付けさえすれば敬語となると思っていた社会人1ヶ月目だった。

 

電話担当時代。服装の規定はなかった。

若いだけが取り柄の僕に、多くの先輩が色々なことを教えてくれた。敬語の使い方から電話対応や数十人の人を前に話すコツ、組織を円滑に運営する方法など。社会人としての礼儀作法だけでなく、世界で起こっている問題や、船に関することなど実に多くのものを教わった。今も感謝している素晴らしい先輩たちだった。

 

ツアーに同行し、ウミイグアナを眺める。ガラパゴス諸島にて。

ピースボートで働いたのは、4年ほど。その間に地球一周を2回、アジアを巡るクルーズに1回、スタッフとして乗船した。そしてまた別のステージを探していた僕に、新たな仕事の誘いがあった。それは楽しそうという気持ちよりも圧倒的に不安が勝る仕事だった。

 

旅行会社に就職し、新たな仕事に挑戦

ピースボートはNGOのため、地球一周の船旅を主催はできない。行き先や内容などのコーディネートをするのみで、販売などの旅行業務をすることができないのだ。そのため、地球一周の船旅を催行するためには、認可を受けた旅行会社が必要になる。それが、かねてからピースボートと二人三脚で地球一周の船旅を実現していた(株)ジャパングレイスという旅行会社だった。

その中に寄港地部というものがあった。呼んで字のごとく寄港地に関する仕事をする部署だ。具体的にはツアーの企画、下見、手配、当日のオペレーションなどを行う。世界中を飛行機で飛び回り、現地旅行会社や現地NGO、船舶代理店などと打ち合わせや交渉をする、ちょっとした花形部署だった。もちろん英語は必須だし、扱う金額も大きい。

そんな部署の中心人物だった先輩のR君から誘われたのだ。「多賀、寄港地部やんない?」と。

「やります!」と即決できればカッコ良かったのかもしれないが、現実は返事に困った。

まず英語の知識が少しある(中学生レベル)とはいえ、話すことも聞くことも自信はない。今までとは全く異なる畑だけに、それこそ右も左も分からない。それに半年後に出航するクルーズで面白い役割をもらえそうでもあった。

考えること数日。悩んだ末に出した結論は寄港地部に行くということだった。理由は「困難が予想される」から。既定路線で進むなんとんなく見える未来よりも、まったく見えない未来の方がワクワクする性格というのをこの時にはっきりと自覚した。

 

そして職業は、NGO職員から会社員となった。

 

I need a bus!

入社間もない頃は、とにかく飛行機で飛び続けた。そして本当に苦労した。まさに予想していた「困難」そのままだった。旅行業界の仕事が分かっていない上に、先輩からの手荒い教育、勝手の異なる異国の地、そしてなにより英語が分からない。何度も何度も挫けそうになった。

そんな時に救ってくれたのが司馬遼太郎が描いた小説「燃えよ剣(新潮文庫)」だった。英語のテレビは面白くなく、今とは違ってYoutubeやSNSだってない時代。出張先での唯一の娯楽は本だった。説明不要かもしれないが、「燃えよ剣」は、新選組副長の土方歳三を主人公に、幕末を新撰組側から描いた歴史小説だ。その中で何度も見せる土方歳三の気組(気合)は今の自分がいかに甘いのかを思い知らせてくれたのだ。「この人に比べれば、俺なんてぜんぜん甘い。なにせ失敗しても斬られないし、切腹だって必要ないんだからな…」こんな風に思うことでなんとか苦しい期間を乗り越えた。

 

今でも覚えていることがある。ノルウェーでツアーを作っていた時のことだ。僕を寄港地部に誘った先輩のR君から、ふいに携帯電話を渡されこう言われた。

「バスを手配して」

「マジ?英語ですよね…」なんて思うも、逆らえるはずもない。面と向かっていれば身振り手振りでコミュニケーションを取り、あとは紙で内容を確認できるが、電話となると話は違う。僕が言ったことが通じるか分からないし、相手が言ったことを僕が理解できるか分からないからだ。なんにせよ当時の僕にとってはとてもハードルが高かった。

しかしやるしかない。僕が寄港地部でやっていけなければ、誘った彼のメンツも潰すことになる。ドキドキしながら現地旅行会社の担当者へ電話をかけた。

 

「ハロゥ」

 

出たーーー!なんて思っても話すしかない。既に頭の中は真っ白に近くなっている。えっと、バスが必要って英語でいうと…なんて考えて、なんとか声を絞りだした。

 

「アイ、ニード、ア、バス!」

 

その後のことはよく覚えてない。とにもかくにもバスを手配することに成功した。

 

ノルウェーのベルゲンにある世界遺産ブリッゲン地区。

 

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉があるが、本当にその通りだなぁと思う。

 

世界を飛び回る日々から一転、退職へ

寄港地部の仕事に慣れるのと比例してストレスも大きく減り、仕事を楽しめる日々が続いた。

僕が主に担当した寄港地は、ベトナム、ケニア、ヨルダン、エジプト、ギリシア、ノルウェー、ナミビア、ジャマイカ、アメリカ、コスタリカ、カナダ、ニュージーランド…など。半日のみの滞在などを含めると70の国と地域に足を踏み入れた計算になる。

 

南極上陸時に登った丘の上にて。

寄港地部は現地を飛び回るだけでなく、船に乗り続けるという仕事もあった。退職まで、幾度となく船にも乗った。その間、実に多くの経験を積ませてもらった。南極では世界の果てに相応しい景色を眺めた。カナダのオーロラが観たくてツアーを企画し自ら同行。結果3日3晩のオーロラを鑑賞した。ニュージーランドの氷河の上にヘリコプター着陸したり、ナミビアのナミブ砂漠ではスノーボードならぬサンドボードを体験したり。ジャマイカではカツアゲされ、ヨルダンのパレスチナ難民キャンプでは石を投げられ…などなど、今も鮮やかに記憶が残っている。

 

年の半分以上は海外か船の上という生活を続けることに満足していたし、なにより刺激に満ちていた。しかし仕事に慣れてくると、また新たなステージを求めるようになった。そして迎えた、2011年。退職を決意した。

 

退職した理由は、無理矢理にでも挙げようと思えばいくらでもあるが、一番は「先が見えた」ということに尽きると思う。寄港地部入りを決意した時のように「まったく見えない未来」に進みたくなったのだ。

 

転職先はまったくの別業種、出版社

なんにせよ20代の大半を過ごした旅行会社を退職した。幸いにもすぐにジョブオファーが届いた。それは、出版社だった。「海外旅行ガイドブックを作りをやらない?」と。またまた誘ってきたのは寄港地部時代の先輩R君。実は彼は僕より前に退職していて、その出版社で働いていたのだった。こうして考えると僕はR君に2度も大きく人生を変えられた。もちろんいい意味でだ。

 

そうしてまたしても就職活動をせずに職を得た30歳。しかし人の縁には、本当に感謝するばかりだ。

 

多賀、本出すってよ!

入社したのは、A-Worksという出版社だった。自由人・高橋歩が仲間と作った会社だ。みな気さくで畑違いの僕に出版のイロハをたくさん教えてくれた。特に先輩編集者のYさんにはよくしてもらった。

さて、ガイドブックを作ろう。と、取りかかり始めたのも束の間。入社して間もない時期に、地震が下北沢の事務所を大きく揺すった。東日本大震災だ。靴も履かずにビルの外へ飛び出し、揺れが収まるのを待った。事務所に戻ると、大きな本棚から大量の本が床に散らばっていた。ニュースを見ると、とんでもない規模の地震ということが分かった。本の片付けは後日にまわすことを決定。「帰宅難民」なんて言葉も知らなかったが、とにかく帰宅した方がいいとなり、当時住んでいた新宿へ帰った。大渋滞でどこもかしこも道路は車で埋まり、歩道は帰宅するスーツ姿の人々溢れていた。バイクに乗っていた僕は、そんな光景を横目にバイクでスイスイと進んで行った。緊急時におけるバイクの機動性を改めて見直した。

 

そして地震発生から1週間後。

前々職でお世話になっていたピースボートが震災支援を行うということで声がかかった。ボランティアリーダーで行かないか?と。すぐさまA-Worksの許可を得て、荷造りを始めた。寝袋、マット、調理器具…。アウトドアグッズを持っていて良かったと初めて思った。

準備が整うとすぐに、多くのボランティアと共に大型バスに乗って、宮城県石巻市を目指した。

到着したのは、避難所として使われていた湊小学校。ここが僕が担当する場所だった。屋外プールには、津波でながされた車が浮き、校舎の一部にはたっぷりと泥が入り込んでいた。被災者は2階以上の教室で、食事、睡眠をとっていた。僕を含めたボランティアが滞在したのが、ちいさな倉庫だった。そこを拠点に持ち込んだ食料を取りながら、朝から夕方まで体を動かし続けた。周囲に広がる光景は、とても日常では想像しなかったものだ。テレビの中にしかなく、どこか遠い所の出来事だったものが、目前にあった。

滞在した期間はちょうど1週間。この経験は僕の人生を大きく変えたと思う。いつ何時、日常が日常でなくなるかもしれないということを深く胸に刻むこととなった。

 

帰京し、以降はひたすら本を作り続けた。

中でも最大のヒットとなったのが「5日間の休みで行けちゃう! 絶景・秘境への旅」だ。新宿東口の紀伊國屋の店前でワゴンに山積みされて販売されている光景を見た時は、とても感慨深かったことを覚えている。

また、とてもヒットとはいえないが、バイク好きが高じて友人のY君と作った「Z’s Stage(A-Works)」というバイク本を世に出せたのもいい思い出となっている。

 

書店が大々的に販売してくれた。「5日間の休みで行けちゃう! 絶景・秘境への旅」

 

多賀、移住するってさ

そして2013年に岐阜県高山市へ移住。

その後、旅行ガイドブック編集者ということで、光文社より出版の話をいただき(これもDという先輩が手助けしてくれた、感謝しかない)、2015年に「一生に一度は行きたい 世界の旅先ベスト25」を光文社新書より出版。光文社新書から本を出したということで、名古屋の中日文化センターで講師の依頼があったり、bayfm78「THE PRESENT」やTOKYO FM Blue Oceanなどにラジオ出演したりと、これまた滅多にない貴重な経験をさせてもらった。

そして同年(2015年)には、高山市の中心地に1日1組限定の宿「ANCHOR SITE(アンカーサイト)」をオープン。この経緯はまた別の機会に書きたいと思う。

 

随分と長くなったが、このような経緯で今に至る。「いまココ」というやつだ。振り返ってみると、本当に人に恵まれている人生のように思う。何度も同じことをいうが、感謝としいう言葉しか見当たらない。

 

高山市に移住してから3人の子どもを授かった。犬も保護団体からもらってきた。そして家も作った。これから10年以上は高山に住み続けるはずだ。何故「一生住む」と言えないのかというと、僕はどうしても「この場所に骨を埋める覚悟で」なんて気にはなれない。だって未来は分からないほうが楽しいから。

2019/07/01

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